5月23日(後半)_EBC31日目 C5への下山 _豪太日記

On 2013年5月23日 by dolphins

—5月23日(前半)からの続き—
下りはのぼりとは装備の使い方が違う。
ユマールはロープを一方的に登りのために使う。

下りでは下降器、八冠やATCを使う。

ヒラリーステップなどの難所も下りならばリぺリングで簡単に降りれるが、
お父さんの足元がおぼつかないため、常にシェルパや倉岡さんが周りについていないと転んでしまう。

転んでもロープにつながっているため落ちはしないが、そこから立ち上がりルートに戻るのに時間とエネルギーがロスしてしまう。
考えてみれば、朝2時にスタートして今まで、ほとんど休んでいない。
高所の活動はかなり疲労がたまるうえ、山頂でマスクを外したことも響いているのだろう。
ヒラリーステップを降りると、水分補給と若干のお菓子を食べた。

しかし、その後南峰を降り始めると、父の疲労はよりひどくなっていった。

通常はロープを握りそれに体重を預けるだけの方が効率よく降りられる。
しかしそれではバランスを崩すため、下降器を一つ一つつけて降りるようにした。

しかし、下降器の欠点はロープにゆるみがあるときは使えるが張っているロープだと下降器は機能しない。
それが、例の遺体の箇所に来た時である。遺体はロープにぶら下がっているため、ロープにゆるみができない。
これだと下降器を使えない。どうしようと考えた。

そこで、紐を使ってそろりそろりと下す方法を提案した。
いわばビレー方式である。
しかし、倉岡さんは「そのロープはどうする」と聞かれたところ
シェルパのニマが偶然にも遺体がつながっている上部ロープにかなりのあまりのロープがあることを発見した。

このロープを切り、父に結び付け、反対をユマールで固定して下降器につなげる。
これで下りのスピードを制御しながら父を下ろすことができる。

しかし、ロープの長さは10m弱。一気に下ろそうとすると下手したら、
遺体の真横でロープの長さが足りなくなってしまう事態になりかねない。

別にそれでもいいが、あまり気持ちのいいものではないのでゴルフの刻みのごとく、
最初は5m、次は3mとすこしずつ遺体に近づけていき、最後は一気に遺体の横を抜ける作戦に出た。
僕の役割は父と一緒に降りて、お父さんに着けてあるロープがいっぱいになると、
お父さんのユマールをフィックスロープに着け、そこで一度お父さんを固定する役割だ。
これを数十度行いながら、下る。

しかし、C5もやっと見え始めたころ、父の様態が激的に悪くなる。
ほとんどまっすぐ歩くこともできず、ふらふらとしていて、時折座り込むと動けなくなってしまった。

僕のイメージは先ほど通り過ぎた遺体だ。
このままだとエベレストに飲み込まれてしまう。
お父さんの目をゴーグル越しに見詰めてみた。

まだ生気もあるし意識もはっきりしている。
ただ、足に力が入らないという。
僕は脳浮腫も疑った。脳に体液がたまり運動と意識障害をもたらす。
どうにか叱咤激励をしながら、C5まで無理やり連れて降りる。
これはかなり危ない状態である。

C5はまだ高度8500m、十分高度もおろしていなければ、酸素も燃料も資材も十分あるところではない。

このままお父さんを動かすことができなければ、ここで一晩を明かすことになるが、
サーダーのギャルツェンに指示したC5の酸素デポの数は5本。

これでは、僕とお父さんとシェルパ一人が泊まったとしても、明日下るまで十分な酸素がない。
この選択におなかが冷たくなり、足元が揺らぐ思いであった。

すぐに大城先生に父の状態を相談する。
大城先生から、父の意識の状態を聞かれた。
父はテントの中に入り、お茶と赤飯を食べている
父に「意識は大丈夫?」と聞くと、
「ああ、赤飯と三浦ケーキがおいしいよ」と答えがあった。
これでは本当に意識が大丈夫なのかわからない。

大城先生から、「自分の鼻を人差し指で触れるか」ということを聞かれた
その通りにやってみてもらうとしっかりと迷いなく人差し指が鼻を触った。

どうやら意識も運動機能も問題ないようだ。
これはいわゆる「シャリバテ」だろうという結論に至った。
シャリバテはいわゆる、腹が減りすぎて動けなくなることだ。
朝から連続したハードな登山、斜面が急なのと酸素マスクをつけているので十分に水分も食料も補給できず行動続けたため、ばててしまったのだろうということだった。

とりあえず、C5にて水分と食事を澄まして1時間後の経過を見ることにした。
その時点ですでに4時近く。
このまま、十分な休息をとったとしても、C4まで降りる時間があるかどうか…。

しばらくすると、父の顔に生気が戻ってきた。
父に二人のシェルパを前後に着けて降りることにし、その後ろに僕が続く。

彼らは半ば強引に父をフィックスロープに括り付け、ものすごいスピードで降りていく。
父もそのスピードに負けまいと必死に足を動かす
結局懸念していた時間は驚くほど速く、7時にはC4についていた。
日没ぎりぎりである。

父は転がり込むようにテントの中に入り、寝袋の中に入った
大城先生からの指示で十分に水分をとるようにと言われたが、
すぐに寝息を立てて寝てしまったので、せっかく沸かしたお湯も全部僕が飲む羽目になった。

朝の2時から夜の7時まで、行動時間にすると17時間、ふつうの80歳が動く時間ではない。

今日は幸い晴れた、とてもコンディションのいいエベレストだった。
これが少しでも何かが違っていたらどうなっていただろう
C5がなかったら、もっと寒かったら、少しでも父の体力が足りなかった…、
いろいろなもしが頭によぎるが、感謝するべきは父の生命力である。

よくあそこから復活してくれたと思う。